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東急7000系電車




概要

東急電鉄の直営車両工場であった東急車両製造(現在の総合車両製作所)では、ステンレスを使用した車両が通常の鋼製の車両と比較して、軽量化による経済性と頑丈な構造による安全性の面で優れていることを理由に、1955年頃から独自にステンレス製車両の設計・製造技術の開発を始めていました。その後、東急車両製造は独自設計の東急5200系や東急旧6000系を製造しましたが、この両系列は骨組みに普通鋼を使用し、車体外板にのみステンレス鋼を使用したセミステンレス車両でした。セミステンレス車両は塗装費の節減には貢献したものの、車体の腐食を完全に防止することはできず、加えて車体そのものの強靭性と軽量化の点では課題が残っていました。
そのため、東急車両製造ではステンレス鋼の利点を最大に生かすためにオールステンレス車両を製造することとし、その製造技術を持つアメリカのバッド社との技術提携を結ぶことになりました。この技術提携により、日本で初めて製造されたオールステンレス車両を持つ通勤形電車として製造されたのが東急7000系です。当系列は東急東横線と営団地下鉄(現在の東京メトロ)日比谷線との相互直通運転に使用できる規格で設計され、その製造にあたってはステンレス鋼の使用以外にも様々な新技術が導入されています。また、東急の1系列として当時最大の両数である134両が製造され、2・4・6・8両編成を組むことができました。

外観・走行機器


当系列は従来のセミステンレス車両に使われていたステンレス鋼よりも強度を高めた、高抗張力ステンレス鋼を主に使用して製造されており、車両デザインはバッド社の推奨で、アメリカの南東ペンシルベニア交通局で使用されているM-3形という車両をモデルにしたスタイルとなっています。なお、車体長は18m級で、ドア数は3つとなっています。塗装工程の省略と塗装費用の節減のため、車体はステンレス地を生かした無塗装となっており、側面の下半分にはコルゲートが施されています。
前面形状は中央に貫通扉を設置した三面折妻形状で、貫通扉の上には方向幕が設置されています。また、バッド社が直接的に技術指導を行ったため、当時のアメリカで採用されていた鉄道車両構造の規格の影響を受け、車両が衝突した際に運転台周辺部分が局部的に破損しないように衝突柱が設けられています。この衝突柱が設置されたため、中央の貫通扉は従来の系列よりもやや奥に設置されており、使用していない貫通幌はそのへこんだ部分に格納できるようになっていました。なお、当系列はもともと各駅停車のみでの使用が想定されていたため、初期の編成には通過標識灯が設置されていませんでしたが、1964年以降の製造車からは当初より通過標識灯が設置されています。
当系列には、日立製作所製の電装品を使用した車両と、東洋電機製造製の電装品を使用した車両の2つのグループが存在しており、それぞれのシステム構成が大きく異なっているため、編成単位での連結運転は可能なものの、グループを越えた1両単位での組み替えはできません。なお、日立車は東洋車よりも主電動機出力が高く、高速性能にも優れているという特徴があります。台車にはバッド社のパイオニアIII形台車に若干の設計変更を行ったものが採用され、従来の台車にはなかった構造と台車の外側に付いているディスクブレーキのために、保守性が大幅に向上しています。

車内


車内の座席は通勤形電車では標準的なロングシートとされました。車内の蛍光灯を当時としては多く設置することで照度を向上させ、加えて旧6000系で装着されていた蛍光灯カバーを省略したことで保守作業の合理化を図っています。また、地下鉄線内を走行する際の走行音を防ぐため、従来の系列で設置されていた床面の主電動機点検蓋(トラップドア)は廃止されています。なお、当系列では冷房装置の搭載が考慮されておらず、ファンデリアの設置のみにとどまっています。
初期の3編成では、側面の2段窓はつるべ構造となっており、内窓を上げるとワイヤーで連動した外窓が下がる仕組みとなっていたため、窓の上下部分で同時に通風できるようになっていました。また、それらの3編成には日比谷線の乗り入れ協定に基づき、つるべ構造の窓の外部には安全性を考慮して保護棒がつけられていました。なお、その後に製造された編成は通常の2段窓で製造されています。

歴史

当系列は1962年から、まず東横線で営業運転を開始しました。1963年には小田急電鉄に新製されたばかりの2両編成1本が貸し出され、全線にわたって高速走行試験に使用されました。また1964年の夏には、伊豆急行に新製されたばかりの6両編成1本が貸し出されました。この編成には、単線トンネルを走行する際に車内を吹き抜ける強風への対策のため、2両ごとに車内仕切り扉が設けられていました。なお、この貸し出しは夏季のみで、1966年まで続くことになります。
1964年からは当初の目的通り、東横線と日比谷線との相互直通運転での使用が開始されましたが、実際に相互直通運転に使用された車両は一部にとどまりました。なお、同時期に東武伊勢崎線と日比谷線との相互直通運転も始まっていますが、直通運転開始前の合意に基づき、当系列には伊勢崎線への乗り入れ対応機器が設置されなかったため、同線に乗り入れることはできませんでした。日立車はその高速性能を活かして東横線の急行運用にも使用され、東洋車は主に日比谷線直通に使用されました。
1966年からは溝の口~長津田が延長開業した東急田園都市線での運用が始まっています。なお、東横線と田園都市線で優等列車に使用される際には、前面に種別表示板を取り付けて運転されました。1971年からは日比谷線の輸送力増強のため、当系列の8両編成を使用した相互直通運転が始まりました。1978年から1983年にかけて、一部の車両に車体更新工事が施工され、ドアや内装の更新が行われたほか、初期の車両に採用されていた、保守管理に難があったつるべ構造の2段窓は通常の2段窓に改造されています。
1981年までに、東急新玉川線(現在の田園都市線 二子玉川~渋谷)の開業とそれに伴う田園都市線の輸送力増強のため、当系列は田園都市線の運用から撤退し、全車両が東横線所属となりました。その翌年には再び一部の編成が田園都市線に転属しています。当系列は「オールステンレス車両は解体しない」という東急の方針に沿って、134両の全てが改造、譲渡などを経て再利用されることになりました。そのため、1987年から当系列を東急7700系へ改造する工事が開始され、翌年からは他社に譲渡するための廃車が始まりました。なお、当系列の譲渡は1991年までに、弘南鉄道、北陸鉄道、水間鉄道、福島交通、秩父鉄道に対して行われました。
1988年の春から夏にかけて、当系列の前面に赤帯が施されています。1989年からは、当系列の4両編成が東急目蒲線(現在の東急目黒線と東急多摩川線)で、特別改造工事が行われた2両編成が、こどもの国協会(現在は横浜高速鉄道)こどもの国線で新たに使用されるようになりました。なお、2両編成に行われた特別改造工事では、運転台のマスコンがワンハンドル式のものに取り換えられ、同時にワンマン運転に対応した機器が取り付けられました。テープによる自動放送装置も設置されています。また、こどもの国のマークが前面に掲示され、赤・青・緑の装飾が施されていました。
1988年末から当系列の後継車である東急1000系が営業運転を開始し、当系列の運用が順次置き換えられていった結果、1991年6月にはこどもの国線以外での当系列の定期運用は終了しました。こどもの国線で残存していた2両編成も、1999年7月末をもって営業運転を終了し、翌年3月にさよなら運転が行われた後、2両のうち1両のみが「東急車両産業遺産制度」の第2号として、東急車両製造の横浜製作所の構内で永久保存されることになりました。なお、この車両は2012年に日本機械学会の機械遺産第51号に指定されています。

現状

現在は先述の通り、総合車両製作所の横浜製作所に先頭車1両が保存されているほか、弘南鉄道・北陸鉄道・福島交通の7000系、水間鉄道の1000系が現役で活躍しています。

走行音はありません。

廃形式につき走行線区は省略

フォトギャラリー

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外観1

外観2

前面方向幕

先頭部分側面

台車

パンタグラフ

後部の様子

検査表記など
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