みなさま、新年あけましておめでとうございます。副管理人の西鉄8000系です。
当サイト公式Twitterでもご挨拶させていただきましたが、今年もAlmightyTrainSiteをどうぞよろしくお願いいたします。
さて、2018年4月1日を以って廃止となった三江線ですが、それが廃止になる約3ヶ月前の様子を、当時撮影した写真を見ながら振り返っていくこのシリーズ、
そろそろ廃止から2年が経過しようとしている中、相変わらずスローペースでの執筆となってしまっておりますが(汗)、
今回も自分なりに駅を訪れた時の状況をご紹介できればと思っておりますので、気軽に読んでいただけると幸いです。
本日は、一時期、三江北線の終着駅になっていた駅であり、昔からの木造駅舎がそのまま現存していた石見簗瀬駅をご紹介します。
先程訪問していた石見都賀駅から一般国道375号をひたすら北上し、そのまま行ってしまうと日本海沿岸の太田市に抜けてしまうので、粕淵駅がある美郷町中心部から島根県道40号「川本波多線」に進路を変更してそのまま石見簗瀬駅へ向かいます。
途中のコンビニで休憩を挟んだこともあり、1時間ちょっとかかって
目的地の石見簗瀬駅に到着しました。奥の方にホームに建てられた駅名標が見えます。
この石見簗瀬駅は1935(昭和10)年12月2日に、当時浜原駅へ向けて延伸中であった三江北線の終着駅として開業し、その後1937(昭和12)年10月20日に三江北線が浜原駅まで開業するまで終着駅として営業していました。
かつて終着駅だったこともあって、元々この駅は有人駅であり、写真でいうところの駅舎左側部分は駅員用の事務室なわけですが、現在は三江線のほぼすべての駅と同様、無人駅となってしまっています。
なお、この駅舎は三江線廃止後に解体され、現在は更地の状態になっているとのことです…
駅の名前が書いてあるプレートの左横には
1972(昭和47)年7月豪雨によってこの駅の近隣の江の川が氾濫し、駅舎が浸水した際の推移を記録するプレートが設置されています。1つ前の写真と比較してもかなりの高さまで川の水が来ていたことが分かります。
この1972年7月豪雨で粕淵~浜原間の鉄橋が流されるなどして三江北線は大ダメージを受け、北線が全線復旧するまでに2年5カ月少々かかっています。
さて、この辺で駅舎の中に入ってみます。
写真左側の大きな掲示板や時刻表が設置されている壁の向こう側は、一番最初の写真に写っている駅事務室になるのですが、無人駅にありがちな完全に塞がれた状態になっています。
利用客が使うことができるわずかなスペースには造り付けの木製ベンチが設置されています。人の手が頻繁に入っているのか、駅舎内はかなりきれいな状態に保たれていました。左側の壁の向こうはどんな状態になっているのか気になりますが…
少し見えづらいですが、時刻表には双方向で1日5本ずつの列車が記載されています。改めて思い出すと三江線は本当に本数が少なく、駅取材をするにも自動車を使わないと一体何日かかるか分からないこわさがありました…
それでは、奥のサッシ扉を開けてホームの方へ向かいます。
扉の先はホームへと続く通路になっているのですが、扉を開けて正面には「停車場中心」と起点からの距離を示すプレートが取り付けられていました。その手前はバラストが敷かれています。
よく見ると枕木も所々に残っていますが線路は敷かれていませんね…
同じ場所から左側を見るとこんな感じです。左に写っているのが駅舎、右がホームですが、その真ん中には奥へ延々とバラストが敷かれています。
…この辺りでお気づきの方も多いと思いますが、この石見簗瀬駅は元々、列車交換が可能な駅となっていまして、その跡がこのようにして残っていたわけなんです。
JR化後から止まらない乗客減に苦慮していた三江線では、保守費をはじめとする経費削減のため、1999(平成11)年3月13日のJR西日本ダイヤ改正を以って、川平駅、川戸駅、因原駅、そしてこの石見簗瀬駅での交換設備の使用を停止しまして、その後このような形で撤去されるに至っています。
インターネットで検索した際にヒットするJR時刻表の三江線ページのスキャンデータ(1997年9月20日訂補)によれば、その時点での石見簗瀬駅の定期列車交換は1日3回(8時5分、15時59分、18時19分)となっていて、長年使っていなかったので使用停止・撤去したというのではなく、本当にやむにやまれず撤去したという感じなのかなあと思った次第でした。
同じ場所から右斜め前を見ると、駅名標とホーム上屋を見ることができます。
使われなくなったホームの際にはプランターがいくつも設置されていて、春になれば色々な花が咲いていたのでしょうか。
同じ場所からホームへの通路・駅舎入口を見るとこんな感じです。駅舎入口には有人駅時代には頻繁に使われていたであろう電話類が設置されています。
通路を奥に進んで左に行くとホームに入ることができます。
通路を奥まで進めばかつての構内踏切の跡なんかも残っています。ここを渡った先にある少し低めの柱には警報器(完全に想像ですが、警報音とともに「電車が来ます」の文字が赤く光るタイプでしょうか?)が設置されていたのでしょう。元構内踏切にも欠かさずプランターが置いてありました。
構内踏切の跡を渡ってホームに上がります。少し狭めのホームです。ホーム中心線を軸に左右対称のデザインとなっているホーム上屋の構造も、かつてこのホームが1面2線で使用されていたことを物語っています。
三江線の各駅に設置されている「三江線活性化協議会」という団体による石見神楽の演目名にちなんだ愛称名を表示した看板がこの駅にもあります。
この駅は「岩戸」というシンプルな愛称が付けられていました。この演目は日本神話の「天の岩戸」を神楽化したものです。
ざっくり説明すると、天照大神【アマテラスオオカミ、天照大御神(アマテラスオオミカミ)とも呼ばれる日本の太陽神の1人です】は弟である須佐乃男命(スサノオノミコト)の数々の悪行に困り果て、天の岩戸【岩でできた洞窟を指します】に隠れてしまいました。
すると世界が真っ暗になって神々だけでなく民も嘆き悲しんだので、他の神々が相談しあった末、芸能の女神に神楽を舞わせて大いに騒ぎ、その音を聞いて外の様子が気になった天照大神が天の岩戸の扉を少し開けて外を覗き見たところを、怪力を持った神が扉をこじ開けて天照大神を引っ張り出したので、世界に再び明るい光が差した、という内容です。
実は、この駅から江の川を渡った反対側に天津神社という天津神【天照大神をはじめとする天上の場所出身の神々のことです】を祭る神社がありまして、そこから「天の岩戸」の神話を連想し、石見簗瀬駅にこの愛称を付けたとのことです。
ホーム上屋には最近設置されたと思しき縦型の駅名標がありました。柱の上部に少しだけ見えている小さなプレートは、この上屋に使われているスレートの詳細が記載されている管理プレートになります。
少しだけベンチが写っていますが、天気が曇天で周囲が若干暗かったせいか、妙に鮮やかに見えました。
ホーム上屋の辺りから駅舎の裏側を見ます。こうしてみると、JR西日本の無人駅にありがちな駅舎の減築工事が施工されていないにもかかわらず、非常にコンパクトな建物になっていることが分かります。
駅舎の柱に取り付けられた縦型の駅名標は、1つ前の写真の物よりも古いタイプでした。
ホーム上屋の辺りから浜原駅方面のホーム先端部を見ます。線路沿いに家々が続いていることが分かります。また、今立っている箇所は土台下部まで完全にコンクリート造りでしたが、先端部の方はコンクリートの床板を使って建設されているようです。
今度はホーム先端部まで進み、そこから江津駅方面のホームを見ます。ホーム先端部付近の方が、線路跡の枕木がそのまま残っている傾向がありました。
ホーム先端部には小さな停止位置表示が立っていました。奥の方にはなんと転轍機まで残っていました。左側に分かれる側線跡も見て取れます。形状を見るに、この側線跡はどうやらこの転轍機から駅前広場の駅舎正面向かって左側まで伸びていたようでした。
以上でこの駅の駅取材を終え、わたくし副管理人と管理人氏は次なる目的地である乙原駅へと出発しました。
石見簗瀬駅は山腹に線路とホームを横付けしたような構造の小さな駅でして、以前に管理人氏が駅取材で訪れ、当サイトにおいて紹介したことがある駅でもあります。
今回は記事を読んでいただきありがとうございました。次回も是非ご覧ください!
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