今回は青森駅前にある「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」に訪問しましたのでそのレポートです。
なお、時系列としては青森遠征3日目の午前中となり、活動順としては青森遠征2日目→本記事→青森遠征3日目ということになります。
青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸とは
まずはこの記事の主題となる「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」について説明してから本題に入っていこうと思います。
八甲田丸は青函連絡船の1隻として活躍した船で、青函連絡船の廃止後はメモリアルシップとして青森駅前に係留され、内部は青函連絡船を中心にした博物館となっています。
開館時間は夏季(4月~10月)と冬期(11月~3月)で異なっており、夏季が9時~19時(最終入館18時)、冬期が9時~17時(最終入館16時30分)となっており、夏季は休館日はありませんが、冬期は毎週月曜日と、12月31日、1月1日、3月の第2週(月~金)となっています。
入館料は大人510円、高校生・中学生310円、小学生110円となっており、団体割引もあるようです。
余談ですが、青函連絡船の対岸である函館にもメモリアルシップとして摩周丸が保存されています。
訪問レポート
それでは本編に入っていきます。
時系列としてはホテルをチェックアウトし朝食を済ませた直後となります。
青森駅から徒歩数分でもう見えてきます。
船がまるごと係留されている形なので分かりやすいですね。
ところで、桟橋にレールが敷いてあるのにお気づきでしょうか?
実は青函連絡船では車両航送といって貨車をそのまま連絡船に積み込んで輸送するということをやっていたので、桟橋にはレールが敷いてあるわけです。
青函連絡船戦災の碑とありますが、戦時中は津軽海峡への機雷敷設で被害を受けたこともあるようですので、その碑なんでしょう。
周辺地図です。
こうしてみると鉄道連絡船だけあって本当に駅から直結の位置に桟橋があるんですね。
元々は連絡船に乗り込むための通路だったのか分かりませんが、八甲田丸の船内に入るにはこの通路を通っていきます。
煙突には国鉄を意味するJNRのロゴがありました。
ところで、青函連絡船の廃止は1988年であり、国鉄分割民営化は1987年なので、最後の1年は青函連絡船の運航をJR北海道が担っていたはずですが、ロゴはメモリアルシップとして保存されるにあたってJNRに復元したのか、JR北海道が運航したのは1年間だけなのでJNRのまま運航していたかのどちらかですよね。
それでは乗船します。
受付でチケットを買ったらパンフレットを受け取るという、博物館などでよくある流れで乗船したら、あとは順路に沿って見学していきます。
いきなり出迎えてくれたのはねぷたのアートでした。
青森といえばねぷた祭りですが、八甲田丸でも展示されているんですね。
この階段から先が有料エリアとのことですが、逆にここまでならチケット無しで入れるってことですかね。
大衆魚菜市場だそうです。
そういえば、のっけ丼を食べた場所も青森魚菜センターという名前でしたね。
鉄道弘済会とありますから、構内の売店を再現したものですかね。
運賃表ですが、すごいのは東京を遥かに超えて四国や九州まで載っていることですね。
昔は青森から九州まで鉄道で移動することも一般的だったんですかね。
新幹線が発達した今でも流石にその距離は飛行機が定番でしょうからねぇ。
下段は五能線と大湊線・大畑線・八戸線となっています。
多くは今でも存在する路線と駅ですが、大畑線は現在廃止されているものですね。
こちらは東北本線の時刻表です。
多くは上野行きですが、尻内行き、一ノ関行き、野辺地行きもありますね。
野辺地や一ノ関は今でもありますが、尻内というのは今の八戸駅のことです。
ところで、東京行きが1本だけありますが、実は東北新幹線の東京乗り入れまでは東北本線の線路は東京駅まで繋がっており、一旦は分断されたものの後年になって2015年に上野東京ラインとして復活した経緯がありますから、この時代は逆に東北本線は東京まで繋がっていたことになりますね。
鉄道で言うダイヤグラムですが、これは青函連絡船の時刻を表現しているようです。
船舶は鉄道よりは自由な進路を選べるので、鉄道ほどの厳密な運航は必要ない気もしますが、逆に鉄道と接続する性質上、定時性は一般の航路以上に要求されたんでしょうね。
座席もありました。
3等はカーペット敷きの雑魚寝というイメージですから、これは2等か1等ですかね。
レーダーだそうです。
恐らくは画面の輝度が低くてフード内を覗き込む形にしているんでしょうね。
たくさんの人形が並んでいて、かつての連絡船の活気を追体験しているようです。
SLの模型もありました。
ちょっとした鉄道博物館みたいですね。
様々な鉄道部品も展示されていましたが、タイフォンまでありました。
青森港入港の仕方だそうです。
大型船ともなると接岸も難しいんでしょうね。
なるほど、可変ピッチプロペラやバウスラスターなども早くから導入されていたんですね。
こちらが可変ピッチプロペラの模型です。
可変ピッチプロペラとはプロペラの角度を変えることでより精密に出力や進行方向を制御することが出来るプロペラのことです。
↑スイッチを押すと動くみたいなので動画でも撮りました。
なぜか八甲田丸ではなく羊蹄丸のものですが、座席も展示されているようです。
現代の水準で見ればだいぶ古さを感じますが、ちゃんとリクライニングチェアになっているみたいですね。
真冬の連絡船では乗客たちがストーブを囲む光景もあったんでしょうね。
青函トンネル建設のきっかけになったとも言われる洞爺丸事故についての記事がありました。
この洞爺丸事故についてですが、1954年に折しも接近していた台風のために青函連絡船の洞爺丸が北海道函館湾内で沈没した事故で、死者・行方不明者あわせて1155人を出した日本の海難史上最悪の事故として記録されているものです。
この時に原因となった台風には「洞爺丸台風」の名が付き、この事故も国鉄五大事故の1つに数えられています。
同じく洞爺丸事故についての記事ですが、また別の記事のようです。
仮眠用なのかベッドもありますね。
あと、飾り毛布までありました。
ソファがありますが意外と狭いですね。
あくまでも幹部だけが集まるための会議室なんでしょうか。
電話もありましたが、ダイヤル式でした。
まあ、青函連絡船が現役だった時代を考えれば当然か・・・w
元々はパソコンで青函連絡船についてあれこれ学べるコーナーだったようですが、コロナ対策なのか使えなくなっていました。
それでは次のブースへ向かいます。
操舵室まで見ることが出来るようですね。
航路図がありました。
こうしてみると上下で若干違う航路なんですね。
ここは公開されていない部屋のようですが、許可なく入室を禁ずの文章が船長の名前になっているのはやっぱり船ですね。
前方確認用の双眼鏡ですかね。
今は観光客相手に活躍しているようです。
号鈴がありました。
鳴らしていいみたいですが、かなりの音量が出るので鳴らす場合は周囲の注目を浴びる覚悟が必要ですw
ブリッジからは周囲がよく見渡せ、ちょっとした展望台みたいになっていました。
そりゃあブリッジは運転席に相当するわけで、一番見晴らしが良くないとおかしいですよね。
このレバーで主機やサイドスラスターを操作するんですね。
「両舷前進微速~!」とか脳内でつぶやいてみました。
随分と年季の入った椅子ですが、現役時代からのものでしょうか。
テープで補修していますが、下手に新品に取り替えられるよりは歴史を感じていかもしれませんね。
旋回窓がありました。
これは窓自体を高速回転させることで遠心力で表面についた水滴を吹き飛ばすというものです。
船は荒天時などに水しぶきを浴びることになるため付いているわけですが、除雪車などの鉄道車両でも採用されているケースがあります。
棚がありましたが、トランシーバー格納所とありますので、ここにトランシーバーを保管していたのでしょうね。
神棚がありました。
軍艦には艦内神社というのがあったそうですが、八甲田丸は軍艦ではないので船内神社といったところでしょうか。
内部も見ることが出来ました。
大きなだるまが飾られていますが、転んでも起き上がるということで転覆を避ける験担ぎなんですかね。
このテレグラフというやつですが、ブリッジからの指示を伝達するものでしょうか?
そういえば、上から2段目にある4つの項目ってブリッジにあった表示盤と同じですね。
この3時と9時のあたりに2箇所赤い印がついた変わった時計ですが、この赤い範囲に長針がある間は沈黙時間と言って緊急以外の通信を禁止することで、救難信号などの緊急の通信がされていないか注意して確認するための時間として定められていました。
しかし、今はモールス電信による通信が実用的な通信手段としては廃止されたため、この規則も存在しなくなり、今は沈黙時間のルールも無くなっているようです。
そして、ブリッジに戻ってきました。
双眼鏡は左右にあるようでもう1台ありました。
案内にある通り煙突展望台とやらにも行ってみようと思います。
後ろから見ると小型ボートに使うような船外機がついていました。
展望台からの眺めがこちらです。
流石は展望台を謳うだけあって眺めがいいですね。
上甲板に戻ってきました。
ここで見張りを行っていたんですかね。
これで終わりかと思ったらエレベーターで車両甲板に降りることが出来るようです。
実は一番興味を持っていたのが車両甲板だったのでこれは嬉しい誤算でした。
それにしてもこのエレベーター、1階と4階の移動しか使えないようになっていて、他の階への移動は階段ということになっているようです。
もしかしたら車いすとかで利用する場合のみ2・3階も使えるようにするのかもしれませんね。
最下層に位置する車両甲板にやってきました。
最下層ということで船体の形に合わせてカーブを描いてますね。
フェリーで車両甲板というと自動車を載せる場所ですが、八甲田丸は鉄道連絡船なので・・・
鉄道車両が載っています!
桟橋にも線路が敷いてあったのでお分かりだと思いますが、貨車についてはまるごと連絡船に積み込むことで北海道と青森を行き来させていたのです。
なお、旅客列車についても昔は列車ごと連絡船に積み込むということをしていましたが、非常時の乗客の脱出に難があるとして青函連絡船の廃止よりも早い時期に中止され、乗客が自ら連絡船に乗り換える方式になりました。
なぜか吊り橋のケーブルの展示もありました。
多分青森ベイブリッジのものなんでしょうけど、単に近いからですかねw
船に鉄道車両を載せるということで揺れてもしっかり固定できるように、船内に連結器がついた固定具が設置されており、連絡船時代はここに積み込む貨車を連結していたんでしょうね。
このスユニ50という車両は50系客車をベースにした郵便車ですね。
今は鉄道での郵便輸送はごく限られたものしか残っていませんが、かつては全国を郵便車が走っていて郵便物を運んでいたんですね。
こちらは非電化区間にも特急を普及させた立役者のキハ80系ですね。
北海道でも活躍していたようですが、青函連絡船で運ばれたことがあるのかどうかまでは分かりませんでした。
所属は函館運輸所だったようです。
本州側の幹線はほぼ電化されていたので、キハ80系の出番は北海道側だけだったでしょうしね。
隣りにいたのはDD16形ディーゼル機関車です。
連絡船に貨車を積み下ろしする際には、このような小型の入換機関車を使用していたみたいですし、このDD16も積み下ろし作業に使われたのかもしれません。
こちらは控車というやつです。
役割は積み下ろす貨車と機関車の間に連結され、強度が弱い桟橋部分に機関車が乗らないようにしていたそうです。
これだけ大きな船を動かすだけあって、やっぱりエンジンも大きいですね。
監視盤だそうです。
今は船のエンジンルームは自動化が進んで無人だと思いますが、青函連絡船の現役だった時代はまだエンジンルームに人員が常駐していたんですかね。
水密扉だそうです。
万が一船内に浸水したときに、ここを閉鎖することで浸水が他の区画に波及しないようになっているみたいです。
発電機室でした。
船内で使う電気を発電するためのエンジンなんでしょうね。
ひと通り見終えましたが最後に車両甲板の車両を違うアングルから撮っていきたいと思います。
「津軽海峡・冬景色」の歌謡碑がありました。
そういえばこの曲にも青函連絡船が出てきましたね。
インスタ映えスポット的な感じなのか、こんな場所がありました。
ここでは結構皆さん記念撮影をしていましたね。
顔面がリンゴのインパクトあるキャラクターがいましたw
どことなく「りんごろう」を彷彿とさせますが、宣伝しているのは山形リンゴではなくて青森リンゴですねw
といったところでこの記事はそろそろ〆たいと思います。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
次回ですが、長崎方面への遠征に出かけていますので、そのレポートでお会いしましょう。
それでは
ここまで詳細な記録ですが、グリーン指定席の記録が無いのが残念。