2018年1月三江線駅取材の旅 2駅目 長谷駅

こんばんは。副管理人の西鉄8000系です。
2018年4月1日を以って廃止となった三江線ですが、それが廃止になる約3ヶ月前の様子を、当時撮影した写真を見ながら振り返っていくこのシリーズ、
相変わらずスローペースでの執筆となってしまっておりますが(汗)、
今回も自分なりに駅を訪れた時の状況をご紹介できればと思っておりますので、気軽に読んでいただけると幸いです。

本日は、江の川の畔でひっそりと営業し、三江線で唯一、定期列車の通過が行われていた長谷駅をご紹介します。

先程訪問していた尾関山駅から長谷駅までの道中、広島県道112号「三次江津線」を通ってきたのですが、
これが山にへばりついて走る三江線と江の川の川岸に挟まれて基本的に道幅が狭く、対向車との離合が困難な場所が所々にありまして、
もしも大型車がやってきたらどうしようかとハラハラしながらの移動となりました。
そんな県道を通りつつ、車で15分ほどかけて長谷駅に到着しました。


この日は時折雨が降る悪天候で、周囲の山には雲がかかっており、その景色がひっそりとしたこの駅の雰囲気を引き立たせているように感じられました。
階段は立派なコンクリート造りですが、その先にある駅舎はコンパクトで、ホームは鉄骨組みの簡素なものになっています。
あと、写真を見ていただければお分かりになると思いますが、駅前から先の県道もまた狭くなっています。

さて、この駅は1969年4月25日に国鉄の仮乗降場として開業しました。
仮乗降場というのは、当時の国鉄路線を地域ごとに管理していた鉄道管理局が、
正式に駅を作るまでの大きな需要はないものの、鉄道沿線の住民の利便性を図る等目的で設置した、あくまで「仮」という位置づけの停車場です。
そのため、国鉄時代には時刻表の路線図にその存在が掲載されておらず、それ故に日常的にその鉄道路線・仮乗降場を利用している旅客以外にとっては「知る人ぞ知る」停車場でありました。
仮乗降場はその設置経緯から簡素な設備で建設されていることが多く、この駅のホームが鉄骨組みの簡素なものである理由の一つになっています。
なお、仮乗降場は国鉄民営化に伴って一般的な駅に格上げされており、長谷駅も1987年4月1日のJR西日本誕生と共に駅に格上げされています。
また、この駅は元々仮乗降場で無人であったことから、駅に格上げ後も無人駅としての営業が続いています。


先程の写真を撮った位置から振り返って見た景色です。駅前の道路は前後の区間と打って変って道幅がかなり広くなっていました。
右手に三江線のガーター橋が、左手には江の川が流れており、写真奥側が三次駅・尾関山駅方面になっています。
そういえば、先程ガーター橋のそばを通って駅前にやってきたわけですが、橋の錆止め塗装がやたらと新しいように感じられました。


江の川の景色をもっとよく見てみます。ここまで大きな川が地元にない副管理人にとってはなかなか雄大な眺めでした。
白色のガードレールが奥の方まで続いていますが、これが私たちが通ってきた県道のガードレールになります。


駅前から立派なコンクリート造りの階段を上がり、木造の駅舎と鉄骨組みのホームに近づいてみます。非常にこじんまりした建物で、駅舎というか、待合室といった感じがしました。


先程の写真を撮った位置から左に90度向いた方に、鉄骨組みのホームの先端部分があります。
裏面が見えている看板は、尾関山駅にも設置されていた、「三江線活性化協議会」という団体による石見神楽の演目名にちなんだ愛称名を表示した看板です。
この駅は「鍾馗」という愛称が付けられていましたが、これは海の向こうの中国における魔よけの神様なんだそうです。
そういえば全然関係ないですが、旧日本陸軍の戦闘機にも同じ名前の愛称が付いた機種がありますね。…本当に鉄道ネタとは全然関係ないですね(笑)


木造の待合室には駅の名前を掲げたプレートとJR西日本のロゴが貼りつけてありました。
が、ロゴの方は見るも無残にほぼ剥がれ落ちてしまっていました…
このロゴ、いつのタイミングで貼りつけられたんでしょうね。
今度は待合室の中を見てみます。


待合室の中には運賃表や時刻表だけでなく、除雪用のスノーダンプや年季の入った黒板、鉄道ファンが残していったと思われるイラストが貼られた厚紙なんかも置いてありました。
椅子には、地元住民の方が準備されたんでしょうか、座布団も置かれていて、旅客はそこそこ快適に列車を待つことができるようになっていました。


待合室を出て、さらに階段を上り、待合室を上から眺めます。引き戸向かって左側の銀色の箱のようなものは、運賃や使用済み切符を入れる集札箱です。
元々この駅の利用客は少ない上、最近まで全列車が完全なワンマン運転であり、この駅では運転士に運賃を払うことになっていたはずなので、ここにお金や切符を入れる人は果たして存在していたのでしょうか。
無人駅であればどこでも設置されている設備ではありますが、この駅のものに関しては色々と興味をそそられた副管理人でした。


階段を上がりきり、ホームに設置されたこの駅唯一の駅名標を撮影します。駅名標の後方を見ていただくとお分かりになるかと思いますが、ホームと下の道路とは結構な高低差がありますね。


駅名標がある位置から江津方面のホーム先端を眺めます。先程から何度も触れていますが、この駅のホームは簡素な造りになっており、鉄骨組みの土台に薄めのアスファルト舗装を施したような構造になっていました。
そんな構造のせいか、所々でホームの劣化が進んだようで、部分的に鉄板で補修がされている様子が見てとれると思います。ホームからの転落防止のための手すりもかなり錆びついていますね。

当時、この駅を跨いで運転されていた列車は5往復ありましたが、そのうちこのホームに発着する列車は下り(三次方面)が2本で全て午前中の発着、上り(江津方面)が3本で全て午後の発着。
ただでさえ本数が少ない路線にもかかわらず、更に停車本数が絞り込まれているという状況でした。そのようなダイヤ設定となった背景には、先程もご紹介しましたが、この駅が国鉄の仮乗降場だったことがあります。
ざっくり説明しますと、元々、長谷仮乗降場が誕生した目的は、この仮乗降場周辺の住民、特に学生の利便を図るためでした。
ということで、この仮乗降場のダイヤ設定は、主要な旅客である学生が、三次方面へ登校・下校するのに便利なものとなっており、
過疎化の進行で毎日登下校する学生がこの地域からいなくなってもなお、そのダイヤ設定の主旨が変わることなく今に至っています。
伝統ダイヤと言うべきか、化石ダイヤと言うべきか…いずれにしろ、そのダイヤ設定がこの駅の大きな特徴になっていたわけなんです。

かなり話が脱線しましたが、この辺で駅取材の続きに戻ります。
この写真を撮った位置からさらに進もうと思って奥の方を見ると、ホームが明らかに途切れているように見えるんですね。何かがおかしい。ということで進みます。


途中には尾関山駅と同様の、ステッカー式の縦型駅名標が貼りつけてありました。さらに奥(この写真で言うと左)に進んでみると、

あぁぁぁぁぁぁホームがぶった切られているではありませんか!管理の仕方がワイルドというか、斬新というか…(笑)
いやーしかしこの先のホームの劣化具合は激しいですね。断面付近のアスファルト舗装を見ると、劣化が進んでぼろぼろというか、波打っています。
この先に侵入させないために柵を設置するだけでなく、ホームを物理的に切断して遮断するのは大正解でしょう。普通に危ないですもんね。
この先のホームまで含めると、1両が20mの車両の5両編成くらいが客扱いできるくらいの有効長があるように副管理人は感じましたが、そんな長い編成がこの駅に発着したことは果たしてあったのでしょうか。
そういえば、よく見るとさらに奥の方にキロポストのようなものが見えますが、

江津方面からの100.5kmポストでした。冬場でこれだけ樹木に覆われているのであれば、夏だったら絶対に発見できなかったでしょう(笑)


ぶった切れたホームを撮影した位置から振り返り、三次方面を眺めます。三江線で使用されているキハ120形が3両停車できる有効長が確保されています。


おまけというか、最初から数えて2枚目の写真に写っていたガーター橋の錆止め塗装がやたらと新しく見えたのがどうしても気になって近づいてみたところ、真新しい塗装管理記録が書かれていたので撮影しました。
長谷川橋りょうという名前だったんですね。塗装年月は2015年8月、JR西日本から三江線廃止の意向が表明される約2ヶ月前になっていました。
塗装されてからさほど年月も経たずに廃止されてしまうんだと考えると、せっかくメンテナンスし直したのだから、この橋梁にももっと長く活躍して欲しかったなと思ってしまう副管理人でした。

さて、長谷駅の駅取材はこのあたりで終了となり、次の目的地に出発したわけですが、この時、個人的に非常に重大なミスをしていたことに全く気が付いていませんでした。
この駅取材のレポートには、前回の尾関山駅でのそれにはあったある物の紹介が不足しています。
それは…三江線活性化協議会による石見神楽の演目名にちなんだ愛称名を表示した看板、およびその写真です。
よりによって、長谷駅の駅取材で撮影漏れがあったなんて…と写真の整理中に頭を抱え、かなり落ち込み、この記事の執筆のやる気もなかなか出ませんでした(苦笑)
今後の駅取材の教訓にはなるとは思いますが、非常に残念です。この駅の愛称名の看板、どこかで保存されているという情報があれば、撮りに行きたいですね。

その代わりといってはなんですが、この駅に関係したおもしろい資料がないだろうかと色々探してみたところ、朝日新聞デジタルの特集「クロニクル三江線」にこんなページ(別窓で開きます)がありましたのでご紹介させていただきます。
リンク先の写真を見て、これだけの数の学生利用者がいれば、国鉄が仮乗降場を作ったのも納得だと感じました。こんな時代もあったんですね。
簡易的なホームの構造が今とほとんど変わっていないように見えるのも非常に興味深かったです。
この特集では興味深い写真が他にもたくさん掲載されていますので、お薦めしたいと思います。

では、次なる目的地は船佐駅です。この駅の近辺では第二次世界大戦中に悲しい出来事が起こっていまして、そのことも紹介しつつ、駅取材の模様をお伝えできればと思っています。
今回は記事を読んでいただきありがとうございました。次回も是非ご覧ください!

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西鉄8000系(副管理人) について

AlmightyTrainSiteの副管理人です。以前は関東を中心に活動していましたが、現在は九州に生活の拠点を移して活動しています。写真撮影や走行音の録音はもちろん、色々な駅を巡って詳しく観察する「駅取材」をよく行っています。
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